|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 軽 : [けい] 1. (n,pref) light ・ 巡洋艦 : [じゅんようかん] (n) cruiser ・ 艦 : [かん] 1. (n,n-suf) warship
モントピリア (USS Montpelier, CL-57) は、アメリカ海軍の軽巡洋艦。クリーブランド級軽巡洋艦の3番艦。艦名はバーモント州モントピリアに因む。その名を持つ艦としては2隻目。 == 艦歴 == モントピリアは1940年12月2日にニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で起工した。1942年2月12日にウィリアム・F・キャリー夫人によって命名、進水し、1942年9月9日に艦長レイトン・ウッド大佐の指揮下就役した。 モントピリアはバージニア州ノーフォークを出航し、1943年1月18日にニューカレドニアのヌーメアに到着し、アーロン・S・メリル少将率いる第12巡洋艦戦隊の旗艦となる。1月25日にニューヘブリデス諸島のエファテ島に到着、同地を拠点として数ヶ月間を過ごす。ガダルカナル島付近の敵勢力を一掃する間に、モントピリアは1月29日にレンネル島沖海戦に参加した。 2月21日にはラッセル島への上陸部隊を支援した。3月5日、6日の晩、モントピリアはビラ・スタンモーア夜戦において、コロンバンガラ島の飛行場を砲撃し、敵駆逐艦の撃沈を支援した。6月29日、30日、モントピリアと僚艦3隻はニュージョージア島侵攻準備としてポポラン島への砲撃を行う。7月11日、12日の晩にはムンダへの砲撃を行った。続く4ヶ月間、モントピリアは日本軍の撤退を妨げるためニュージョージア島付近の偵察巡航を行った。 オーストラリアのシドニーを訪れた後、モントピリアは第39任務部隊の旗艦となり、トゥレジャリ諸島およびブーゲンビル島への侵攻部隊に加わる。11月1日にはブーゲンビル島北部のブカ=ボニス飛行場へ砲撃を行い、ポポラン島、バラレ島の日本軍守備隊に攻撃を行った。巡洋艦と駆逐艦から構成された第39任務部隊は11月2日の夜にブーゲンビル島沖海戦で日本艦隊と交戦する。結果はアメリカ艦隊の勝利で終わり、モントピリアは敵艦1隻の撃沈の支援に加え、敵機5機を撃墜した。 1944年2月15日から19日までモントピリアは、ビスマルク諸島のグリーン島への上陸を支援した。3月にはトラック島南方で敵艦を探索し、エミラウ島侵攻部隊に加わる。6月14日にマリアナ諸島侵攻支援のためサイパンへの砲撃を開始し、19日から21日まで第58任務部隊と共にマリアナ沖海戦に参加した。この海戦で日本軍の空母部隊は事実上壊滅した。モントピリアはマリアナ諸島に戻り、サイパン、テニアン、グアムへの砲撃を継続した。8月2日にマリアナ諸島を離れ、オーバーホールのため本国に帰還する。 11月25日に戦場に復帰、レイテ湾沖で任務部隊に合流する。同湾沖で偵察巡航中にモントピリアは多くの奇襲攻撃を退け、敵機4機を撃墜した。12月12日からはミンドロ島侵攻支援のため沿岸での援護を行う。1945年1月のリンガエン湾上陸では特攻機の攻撃から上陸部隊を守り、2月にはコレヒドール島のマリベレス湾、パラワン島での作戦支援、4月14日から23日まではミンダナオ島への上陸を支援した。拠点であるスービック湾からボルネオのブルネイ湾に向けて出航し、6月9日に到着する。6月17日から7月2日までバリクパパンの給油所から出航し、掃海艦、水中爆破班、上陸部隊への支援を行う。モントピリアは艦砲射撃によりオーストラリア軍部隊を支援し、多くの連合軍将兵の命を救った。7月の後半から8月にかけては東シナ海で3度の哨戒を行った。 戦争が終了すると、モントピリアは和歌山港に停泊し、連合軍捕虜の収容を支援した。日本軍艦艇の検査後、モントピリアの乗員は広島市の様子を見学するために上陸した。10月18日には松山市で駐屯軍の上陸支援を行い、11月15日に瀬戸内海を離れ東海岸に向かう。太平洋からハワイを経由してサンディエゴに向かい、続いてパナマ運河を通過、最終目的地のニューヨークに到着した。 1945年12月11日に大西洋艦隊に合流、1946年7月1日に第16艦隊に配属される。モントピリアは1947年1月24日にフィラデルフィアで退役し係留された。1959年3月1日に除籍され、1960年1月22日にベスレヘム・スチール社にスクラップとして売却された。 モントピリアは第二次世界大戦の戦功で13個の従軍星章を受章した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「モントピリア (軽巡洋艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|